瓜生岩子

瓜生岩子は、福島県喜多方市出身の明治時代の社会事業家です。孤児や貧民の救済に生涯を捧げ、日本社会福祉の礎を築いた人物として知られています。

生い立ち

文政12年(1829年)、福島県喜多方市熱塩村の油商・渡辺利左衛門の長女として生まれました。幼名は岩、当時は裕福な商家の娘として育ちましたが、4歳時に天保の大飢饉が起き、9歳で父を失い、家が火災に遭うなど苦難が続きました。母の実家である温泉宿「山形屋」に身を寄せ、瓜生姓を名乗るようになります。14歳で叔父の山内春瓏のもとで行儀作法を学び、産科や婦人科の知識、堕胎防止の啓蒙思想に触れました。これが後の活動の基盤となります。

苦難の青年期

20歳で瓜生半四郎と結婚し、喜多方に移りますが、夫は病に倒れ、7年間の臥床の末に亡くなり、母も相次いで他界しました。絶望の中、菩提寺の隆覚禅師から「お前より不幸な人が大勢いる。もっと不幸な人のために捧げなさい」と諭され、社会事業への道を決意します。戊辰戦争(1868年)では、会津戦争の傷病者を敵味方問わず手当てし、勇敢な姿が語り継がれました。

社会活動の始まり

明治2年(1869年)、私財を投じて小田付村に幼学校を設立。養蚕や機織り、紙製造などの技術を教え、貧困者の自立を支援しました。上京して救養会所を視察後、喜多方の長福寺を借り、孤児や行路病者を収容します。明治15年(1882年)、福島県令・三島通庸の知遇を得て活動が拡大。福島救育所を設立し、明治24年(1891年)には女性として初めて帝国議会に請願書を提出しました。若松、喜多方、坂下に育児会を置き、福島瓜生会を組織します。

晩年と功績

日清戦争中は戦時食品の普及や無料診療所を企画。台湾救養活動も計画し、長男を派遣しました。明治30年(1897年)4月19日、68歳で没。藍綬褒章を受章し、大正13年(1924年)に従五位を追贈されました。会津済生病院の創設者としても知られ、「社会福祉の母」と称されます。浅草寺や郷里に銅像が建立され、今日も顕彰されています。

・天保の大飢饉や戊辰戦争などの時代的苦難を乗り越え、私財を投じた救済活動。
・女性初の帝国議会請願で全国的な救養会所設置を訴え。
・養蚕・機織りなどの授産指導で貧民の自立を促進。

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