江戸時代前期の小浜藩士で、若狭地方の土木事業に尽力した人物です。地震で塞がった三方五湖の水路を開く難工事「浦見川」の開削や、荒井用水の整備を指揮し、多くの村を水害や干ばつから救いました。
小浜藩士としての生い立ち
行方久兵衛正成は、一六一六年に武蔵国(現在の埼玉県)の川越で生まれました。父の正通はもともと青山家に仕えていましたが、後に浪人となり、小浜藩主となる酒井忠勝に召し抱えられました。久兵衛も父の跡を継いで小浜藩に出仕し、若くして家督を相続します。藩内では作事奉行として建築や土木の監督を務めた後、四十四歳で三方郡の郡奉行という要職に就任しました。この役職は、地域の行政や農政を取り仕切る重要なポストであり、彼の実直な仕事ぶりが評価されての抜擢だったと考えられます。
未曾有の大災害と三方五湖の危機
一六六二年、近畿から福井にかけて「寛文近江・若狭地震」と呼ばれる巨大地震が発生しました。この激しい揺れは若狭地方にも甚大な被害をもたらし、特に三方五湖周辺の地形を一変させてしまいます。地盤の隆起や土砂崩れによって、それまで湖の水を海へ排出していた気山川が完全に埋まってしまったのです。出口を失った水は行き場をなくし、周辺の田畑や家屋を次々と飲み込んでいきました。湖の水位は上昇を続け、村々は水没の危機に瀕するという、まさに絶望的な状況に陥ったのです。
命がけの決断と浦見川の開削
この未曾有の危機に対し、小浜藩は緊急の対策を迫られました。藩主の酒井忠直は、久兵衛と普請奉行の梶原重安に、新たな排水路の建設を命じます。久兵衛たちが選んだルートは、久々子湖と水月湖の間にある「浦見坂」と呼ばれる峠でした。しかし、そこは強固な岩盤が立ちはだかる難所中の難所でした。当時の技術では岩を掘り抜くことは極めて困難で、工事は遅々として進みませんでした。
過酷な労働と終わりの見えない工事に、動員された人夫たちの不満は頂点に達しました。「掘りかけて通らぬ水の恨みこそ 行方ゆえのしわざなりけり」という、久兵衛を非難する里歌まで流行したと伝わっています。それでも久兵衛は諦めず、神仏に祈願しながら現場を鼓舞し続けました。およそ二年にも及ぶ苦闘の末、ついに硬い岩盤を貫き通し、人工の川「浦見川」を完成させました。これにより湖の水位は劇的に下がり、水没していた土地が再び姿を現しただけでなく、新たな田んぼを開くことも可能になりました。
荒井用水の整備と晩年の功績
浦見川の成功によってその手腕を高く評価された久兵衛は、その後も地域の農業環境の改善に情熱を注ぎました。特に知られているのが「荒井用水」の整備です。水不足に苦しんでいた金山村や大藪村のために、遠く離れた耳川から水を引くという壮大な計画でした。全長約八キロメートルにも及ぶ水路建設は、浦見川同様に困難を伴いましたが、久兵衛はこれも見事に成し遂げます。この用水のおかげで、広大な土地が実り豊かな水田へと生まれ変わりました。
数々の功績により、久兵衛は藩の財政を司る勘定奉行へと出世し、石高も加増されました。晩年まで藩政と領民のために尽くし、一六八六年に七十一歳でその生涯を閉じました。彼が命がけで切り拓いた水路は、三百年以上経った今も若狭の地を潤し続けており、その偉業を称える石碑が現地に静かに佇んでいます。
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