本間光丘【万里の松原】

江戸時代の出羽酒田を代表する豪商として知られる本間光丘は、単なる商人にとどまらず、庄内藩の財政改革や治水事業、防砂林の造成など、地域社会のために私財を投じて公共事業に力を尽くした人物であり、享和元年(1801)6月1日に69歳で亡くなりました。

商人としての修行と家督相続

光丘は幼少の頃から覚寿院で経史を学び、寛延3年(1750)に19歳で播磨国姫路の豪商奈良屋に奉公に出ました。そこで商人としての本格的な修行を積み、経営の手腕を磨きました。宝暦4年(1754)に父が亡くなると、22歳の若さで本間家の家督を相続し、酒田本間氏第3代当主となりました。相続したその年には酒田町の長人という重要な役職に就任し、商人としてだけでなく地域の指導者としても活躍するようになりました。

公共事業への献身

光丘は家督を継いだ後、地域社会のための活動に積極的に取り組みました。宝暦6年(1756)に酒田地方が大災害に見舞われた際には、窮民救済のために米100俵を供出し、庄内藩主酒井忠寄から賞賛されました。宝暦8年(1758)には酒田の西浜に防砂林の造成を開始し、風砂の被害に悩まされていた地域住民のために私財を投じて松林を定着させました。天明4年には下日枝神社の社殿を建立し、日和山や港に到る参道を整備して、そこを拠点に防砂林事業を推進しました。この松林は後に「万里の松原」と呼ばれ、現在でも人々の憩いの場となっています。

藩政への貢献と武家格の獲得

明和5年(1768)には、幕府の巡見使一行を迎えるための宿舎として本間家旧本邸を建築し、庄内藩主酒井家に献上しました。この建物は書院造りの武家屋敷と商家造りが一体となった全国的にも珍しい様式で、後に本間家が拝領して代々の本邸として使用しました。商人でありながら士分格を得て、庄内藩の財政改革にも貢献し、最上川の治水事業や飢饉対策、海防など、藩政の重要課題に関わりました。

教育への思いと後世への影響

光丘は向学心のある青年のために図書を備えた学問所の建造を江戸幕府に申し出ましたが、実現することはできませんでした。しかし、その遺志は八代目当主光弥によって継承され、大正14年に先祖伝来の蔵書と費用を寄贈して光丘文庫が設立されました。また、光弥は荘内育英会の設立にも関わり、光丘の「学びの場」という願いが後世に受け継がれました。植林事業の功績により、大正7年に光丘は正五位を贈位され、大正12年には有志の尽力により光丘神社が創設されました。「本間様には及びもないが せめてなりたや殿様に」と詠われるほどの財力を持ちながら、その富を地域社会のために惜しみなく使った光丘の生き方は、今も酒田の人々に語り継がれています。

もっと知りたい人のためのリンク集

本間家旧本邸のホームページ
庄内海岸砂防林の造成に多大な功績を残した本間光丘
豪商・本間光丘の生涯と功績
本間家ゆかりの地を巡るコース