印南丈作【那須野が原】

不毛の大地と呼ばれた那須野が原に命の水を引き、豊かな農村へと変貌させた明治の偉人、印南丈作。私財を投げ打ち、同志とともに困難な疏水工事を成し遂げた彼の生涯は、郷土愛と不屈の精神に満ちています。

荒野への眼差しと志

印南丈作(いんなみ じょうさく)は、1831年(天保2年)に現在の日光市で生まれました。後に那須郡佐久山(現在の大田原市)の豪商である印南家の養子となります。当時の那須野が原は、水利が悪く、作物がほとんど育たない広大な荒野が広がっていました。丈作は佐久山の高台からこの荒涼とした大地を見渡すたびに、「この広い土地に水さえあれば、多くの人々を救える豊かな農地に変えられるはずだ」という強い想いを抱くようになります。それは単なる夢想ではなく、国の行く末を案じる憂国の情でもありました 。

盟友・矢板武との運命的な出会い

丈作が40代半ばを迎えた頃、運命的な出会いが訪れます。矢板村(現在の矢板市)の若き指導者、矢板武(やいた たけし)です。武は丈作より18歳も年下でしたが、同じように那須野が原の開拓を志していました。親子ほど年の離れた二人でしたが、丈作の穏やかで粘り強い性格と、武の行動力と情熱は見事に噛み合いました。二人は「那須開墾社」を設立し、那珂川から水を引くという壮大な「那須疏水」計画の実現に向けて動き出します 。

幾多の困難を乗り越えて

疏水計画は苦難の連続でした。水路を通すための測量や政府への請願活動には莫大な資金が必要で、丈作たちは私財を惜しみなく投入しました。しかし、当初の政府の反応は冷ややかで、計画は何度も頓挫しかけます。それでも丈作は諦めず、東京へ何度も足を運び、粘り強く必要性を訴え続けました。その熱意がついに内務省の心を動かし、オランダ人技師ファン・ドールンの調査を経て、国営事業としての建設が認められることになったのです 。

奇跡の開削と晩年

1885年(明治18年)、ついに那須疏水の起工式が行われました。総監督には「疏水の父」と呼ばれる南一郎平を迎え、工事は驚異的なスピードで進められました。難所と言われた岩盤地帯の掘削など、多くの困難がありましたが、わずか5ヶ月という短期間で本幹水路が完成します。通水式の日、荒野を潤す水を見た人々は涙を流して喜んだと伝えられています。丈作はこの偉業を見届けた約3年後、55歳でこの世を去りました。彼が愛し、開拓に人生を捧げた那須野が原の地で、今は静かに眠っています 。

現代に息づく功績

印南丈作が夢見た那須野が原は、現在では日本有数の米どころ、そして酪農地帯へと発展しました。彼が拓いた那須疏水は、安積疏水(福島県)、琵琶湖疏水(京都府)とともに「日本三大疏水」の一つに数えられ、今も大地を潤し続けています。那須塩原市にある彼の墓所「常盤ヶ丘」や、晩年を過ごした屋敷跡は、その高い志を今に伝える場所として大切に守られています 。

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