市川五郎兵衛は、戦国の武士から転じて、信州佐久の原野を水田へ変えた開拓者です。私財と知恵を注いで用水を通し、地域の暮らしを大きく変えました。
生まれと家の背景
市川五郎兵衛真親は、1571年から1572年ごろ、上野国甘楽郡羽沢村、今の群馬県南牧村あたりに生まれました。市川家はこの地を本拠とする土豪の家で、もとは武田氏に仕えていた一族です。戦国時代の終わりに武田氏が滅びると、家は大きな転機を迎えました。五郎兵衛は、幼いころは市左衛門とも呼ばれ、武の家に生まれながらも、のちに新しい時代の仕事へ身を投じていきます。
徳川家康との関わり
1593年、徳川家康から仕官の誘いを受けたと伝えられていますが、五郎兵衛はそれを断り、代わりに鉱山開発や新田開発を行う許しを得ました。ここに、武士としての立場よりも、大地をひらく仕事を選んだ姿勢がよく表れています。戦いの時代が終わりつつあるなかで、彼は武功ではなく、土地を生かす力こそが人々を救うと見ていたのでしょう。
新田開発の仕事
五郎兵衛の名を後世に残したのは、佐久地方での新田開発です。最初に三河田新田、市村新田を開き、その後、矢島新田、のちの五郎兵衛新田へと仕事を広げました。原野に水を引き、田を作るには、地形の見きわめ、資金の用意、長い年月にわたる労力が必要でした。特に五郎兵衛用水は、山地を抜ける難工事を含み、地域の農業を支える大事業となりました。
工夫と苦労
水源を探すだけでも容易ではなく、山中を歩き回って水の道を見つけたと伝えられています。岩をくぐらせるためにトンネルを掘り、堰を築き、水を少しずつ田へ導く作業は、今の感覚から見ても気の遠くなる仕事です。しかも、それを私財を投じて行ったところに、五郎兵衛の覚悟があります。自分の利益だけでなく、土地に生きる人々の未来を見据えていたことがうかがえます。
残した功績
こうした功績により、1642年には小諸藩から150石の褒美地を与えられました。五郎兵衛の開いた用水と新田は、その後の佐久地方の発展を支える基盤となり、今も地域の歴史の中で大きな意味を持っています。2018年には五郎兵衛用水が世界かんがい施設遺産にも登録され、その技術と精神は広く評価されました。彼は単なる郷土の名士ではなく、土地の可能性を引き出した実務家でもあったのです。
人びとの記憶
市川五郎兵衛は、のちに真親神社の祭神として祀られ、佐久の人々に敬われ続けています。武士でありながら、刀ではなく水路を選び、戦ではなく開墾で地域を変えた人物として、その名は今も語り継がれています。荒れ地を実りある田へ変える仕事は、地味に見えて、実は社会を支える根本の力です。五郎兵衛の生涯は、そのことを静かに教えてくれます。
もっと知りたい人のためのリンク集
・佐久市 五郎兵衛記念館
・市川五郎兵衛
・佐久の偉人 市川五郎兵衛

