金原明善は、天竜川の治水や植林によって近代日本の国土保全を先導した「義人」と称される実業家・社会事業家です。
少年期と生い立ち
金原明善は、天保3年(1832年)に遠江国長上郡安間村(現在の静岡県浜松市)の地主家庭に生まれました。幼名は弥一郎で、父の範忠は酒造業や質屋を営み、地域の有力者でした。明善は幼いころから学問に熱心で、同時に「暴れ川」と呼ばれる天竜川の氾濫による被害を肌で感じ、自然との折り合いを模索する出発点がこの地で生まれました。
天竜川治水と堤防事業
明善は、天竜川の氾濫を何度も目にして、単なる堤防だけでは被害を防ぎきれないことを痛感しました。明治元年(1868年)、36歳のとき、明治政府の太政官民政局に天竜川の治水策を提言し、自らが私財を投じて治水事業を始めます。彼は約7キロメートルの堤防工事を行い、自らの土地や財産を担保にして資金を集め、地域住民とともに工事を進めました。この事業は、近代日本における民間主導の治水事業の先駆けと見なされています。
治山と植林の理念
明治7年(1874年)には、オランダ人技師とともに天竜川上流の山林を調査し、荒れ果てた山が水害を助長していることに気づきました。このとき、明善は「川の病は山にある」という治山治水の思想を確立し、森林の保全こそが水害を根本的に抑える鍵だと考えるようになりました。彼は官有林に寄付した苗木だけでも、スギ約250万本、ヒノキ約50万本とされ、天竜川流域だけでなく、伊豆・天城山、富士山麓、岐阜県の山林まで広範な植林活動を展開しました。
社会事業と更生保護
明善は治水以外にも、社会的に疎外された人々の支援にも力を注ぎました。明治13年(1880年)には、静岡や浜松で出獄人保護事業を始め、犯罪を犯した者の社会復帰を支援する先駆的な活動を展開しました。当時としては珍しく、刑罰だけでなく「更生」の視点を持ち、働く場を用意し、教育や生活指導を行った点で、日本の更生保護事業の先覚者と評価されています。
北海道での開拓と金融事業
その後、北海道へも目を向け、明治33年(1900年)には北海道瀬棚郡に「金原農場」を設立し、農業開拓事業を進めました。また、資金面でも地域の発展を支えようと、明治18年(1885年)には「東里為替店」(後の金原銀行)を設立し、農業や林業、運輸など地域産業の資金循環を支えました。こうした金融・産業支援の活動は、静岡県全体の近代化にも大きく寄与しました。
晩年と功績の評価
明善は生涯を通じて「国家社会公共のための事業活動」を信条として掲げ、自らの財産を惜しみなく使い、身を軽んじて社会に貢献しました。その功績をたたえられ、明治時代には金盃の下賜や位階の叙任などを受けますが、位記を辞退するなど、名声よりも実績を重んじる姿勢を見せました。彼は大正12年(1923年)に91歳で亡くなりましたが、その思想は「金原治山治水財団」として引き継がれ、現在も治山治水や植林活動に生かされています。
もっと知りたい人のためのリンク
– 金原明善(Wikipedia)
– 金原明善とは(一般財団法人金原治山治水財団)
– 国土交通省「木曽三川治水偉人伝 金原明善」
– 暴れ天竜に挑んだ男、金原明善(GLOBERIDE 連載)

