加藤九蔵【膳所谷の植林】

膳所藩の加藤九蔵は、荒れた山をよみがえらせた実務家です。江戸時代の地方社会で、山と水を守る仕事で人々の暮らしを支えた点に、この人物の大きさがあります。

生い立ち

・加藤九蔵は享保十六年(一七三一)生まれの人物で、江戸時代中期に活躍しました。
・出身地については、伊勢国員弁郡深尾村とする記述と、膳所木ノ下村に生まれたとする記述が見られます。
・こうした違いはあるものの、九蔵がのちに膳所藩の山林行政に深く関わり、地域の山を立て直した功労者として伝えられていることは共通しています。

膳所藩に仕えるまで

・九蔵は明和六年(一七六九)、三十九歳ごろに膳所藩に召し抱えられました。
・記録では、山林奉行配下の山林方、あるいは中間組に入り山番を命じられたとされ、いずれも山の管理に直接たずさわる役目です。
・この時代の膳所藩では山林の荒廃が問題となっており、木材資源の回復は藩にとって重要な課題でした。
・九蔵はそうした現場で、実際に山へ入り、土地の様子を見ながら植林を進めていきました。

植林への尽力

・九蔵は杉や檜を中心に苗木を植え、荒地の開墾や育林に長く力を尽くしました。
・滋賀県の資料では、九蔵は約四十年にわたって相模川上流の膳所谷で植林を行ったとされています。
・また、木ノ下谷一帯でも水源を守るための森林づくりに取り組み、その面積は二十五町歩ほどに及んだと伝えられます。
・山林巡視のかたわら、独力で植林を進めたという伝承もあり、九蔵が単なる役人ではなく、強い志を持った実践家だったことがうかがえます。

なぜ「餅九蔵」か

・九蔵は「餅九蔵」という異称でも知られています。
・この呼び名は広く伝わっていますが、今回調べた範囲では、その由来を詳しく説明するものは見つかりませんでした。
・それでも、土地の人びとが親しみをこめて九蔵を記憶し続けたことは、この異名が今も残っていることからよくわかります。

死後の顕彰

・九蔵は文化五年(一八〇八)に亡くなりました。
・その死後、膳所藩主本多康禎は九蔵の功績をたたえる木札を建てたとされています。
・さらに明治四十五年(一九一二)には「餅九蔵植林記念碑」が建てられ、近代に入ってからもその働きが地域の記憶として受け継がれました。
・山仕事は目立ちにくいものですが、木を植え、水を守り、後の世に森を残した九蔵の働きは、まさに郷土の土台をつくる仕事でした。

人物像

・加藤九蔵の生涯は、華やかな政治や戦の歴史とは少し違い、地道な努力で国土を育てた人の物語です。
・江戸時代の藩政は、城や武士だけで成り立っていたのではなく、山林管理のような実務に支えられていました。
・そのなかで九蔵は、木を植えることが人々の暮らしを守ることにつながると知っていたのでしょう。
・今日、膳所藩の歴史を語るときに九蔵の名が残るのは、自然と生活を結びつけて考えた先見性があったからです。

もっと知りたい人のためのリンク集

餅九蔵と木ノ下谷国有林:近畿中国森林管理局
加藤九蔵とは – コトバンク
第42回 博物館の新収蔵品について – 大津市歴史博物館
膳所藩 – Wikipedia