謝花昇【沖縄自由民権】

貧しい農家に生まれながら、沖縄初の農学士として県政改革に挑み、県民の参政権獲得のために孤独な戦いを続けた人物、それが謝花昇です。その短い43年の生涯は、沖縄近代史における民権運動の原点として今日も語り継がれています。

逆境の中で育んだ学問への情熱

謝花昇は1865年(慶応元年)、現在の沖縄県八重瀬町にあたる東風平間切の農家に、父・勝太郎の長男として生まれました。 幼い頃から頭脳明晰でしたが、「百姓に学問はいらぬ」という父の反対にあい、教室の外から授業を聞くという苦労を重ねながら学問への意欲を磨いていきました。 その努力が実を結び、1882年(明治15年)には18歳で沖縄県初の第1回県費留学生に選ばれ、東京へと旅立ちます。

帝国大学卒業と農学士への道

上京後は学習院中等科に入学し、自由民権思想家・中江兆民の教えを受けます。 その後、東京山林学校で農学を学び、1891年(明治24年)には帝国大学農科大学(現・東京大学農学部)を卒業して、沖縄県初の農学士となりました。 帰郷後は、当時鹿児島県出身者が多数を占めていた沖縄県庁に技師として採用され、農業技術の指導や砂糖産業の近代化など、精力的な農政改革に取り組みました。

奈良原知事との激しい対立

昇の県政改革への情熱は、1892年(明治25年)に着任した奈良原繁知事と真っ向から衝突することになります。 奈良原は「琉球王」とも呼ばれた専制的な人物で、旧特権階級を優遇する杣山(そまやま)開墾政策を推し進めました。昇はこれに農民の側から真っ向から反対し、「民地民木」の原則を主張して知事と激しく対立しました。 さらに板垣退助の政党内閣に知事更迭を直訴しましたが実現せず、県庁内で孤立した昇は1898年(明治31年)に辞職を余儀なくされました。

沖縄倶楽部の結成と参政権運動

県庁を去った昇は翌1899年(明治32年)、當山久三らとともに「沖縄倶楽部」を結成し、機関誌「沖縄時論」を発行して奈良原県政への批判を展開します。 運動の柱は、県政批判・土地整理問題・そして沖縄県民への参政権付与の三点でした。しかし農工銀行役員選挙での敗北など、相次ぐ挫折が続き、心身ともに衰弱していきました。

不遇の晩年と死、そして遺されたもの

運動の失敗と弾圧によって精神的・肉体的に追い詰められた昇は、その後病の床に就き、1908年(明治41年)10月29日、43歳という若さでこの世を去りました。 彼が命がけで求め続けた沖縄県民の選挙権が実現したのは、その死後4年後の1912年(大正元年)のことでした。 農政改革の指針を示した著書「沖縄糖業論」(1896年)は今も高く評価されており、八重瀬町の東風平運動公園には昇の像が建立されています。

もっと知りたい方へ

謝花昇 – Wikipedia(生涯・思想の詳細)
謝花昇 – 近代日本人の肖像(国立国会図書館)
謝花昇 — 沖縄民権運動の父が築いた「平等」への不屈の道(歴史キング)
謝花昇 – あまくま琉球(地元・八重瀬からの紹介)
謝花昇 著作紹介(みすず書房)

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