井沢弥惣兵衛【土木の神】

江戸時代の「土木の神様」とも呼ばれる井沢弥惣兵衛は、8代将軍・徳川吉宗の右腕として活躍した技術者です。見沼代用水をはじめとする大規模な新田開発を成功させ、日本の農業基盤を築きました。

紀州での頭角と才能の開花

井沢弥惣兵衛(諱は為永)は、1654年(承応3年)に紀伊国(現在の和歌山県海南市)の豪農の家に生まれました。幼い頃から計算能力に優れ、土木技術の才能に恵まれていたといいます。その才能を見出され、28歳の時に紀州藩主・徳川光貞に召し抱えられました。その後、紀州藩主となった徳川吉宗のもとで、紀の川流域の新田開発や灌漑事業に携わります。特に、和歌山県にある日本最大級の農業用ため池「亀池」の築造や、「小田井用水」の整備などで大きな実績を上げ、その名を知られるようになりました。

将軍吉宗の呼び寄せと江戸への進出

1716年、徳川吉宗が江戸幕府の第8代将軍に就任すると、享保の改革の一環として新田開発が重要視されるようになりました。吉宗は、紀州時代にその手腕を高く評価していた弥惣兵衛を江戸に呼び寄せます。当時すでに60歳を超えていた弥惣兵衛ですが、吉宗の期待に応え、幕府の役人(旗本)として取り立てられました。ここから、彼の人生における第二の黄金期とも言える、関東地方を中心とした大土木事業が始まります。

見沼代用水という大偉業

弥惣兵衛の最大の功績として語り継がれているのが、現在の埼玉県を流れる「見沼代用水(みぬまだいようすい)」の開削です。当時、広大な沼地であった「見沼」は灌漑用の貯水池として使われていましたが、彼はこの沼を干拓して新しい田んぼ(新田)に変える計画を立てました。沼の代わりに水を供給するため、利根川から約60キロメートルにも及ぶ長い水路を引くという壮大なプロジェクトです。正確な測量技術と「紀州流」と呼ばれる工法を駆使し、わずか半年ほどの短期間でこの難工事を成し遂げました。これにより広大な美田が生まれ、江戸の食糧事情は大きく改善されました。

全国に広がる紀州流の技

見沼での成功だけでなく、弥惣兵衛は各地でその手腕を振るいました。多摩川の改修や下総(千葉県)の手賀沼の新田開発、江戸の小合溜井(現在の水元公園)の整備など、数多くのプロジェクトを指揮しました。また、晩年には美濃郡代として現在の岐阜県にも赴任し、木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)の治水計画も立案しています。彼が導入した「紀州流」の土木技術は、それまでの工法とは異なり、水の勢いを弱めて堤防を守る工夫などが凝らされており、その後の日本の治水技術の標準となっていきました。

晩年と後世への影響

80歳を過ぎても現場に立ち続けた弥惣兵衛は、1738年(元文3年)に85歳でその生涯を閉じました。彼が手掛けた用水路や新田は、300年近く経った現在でも現役で使われているものが多く、地域の農業や生活を支え続けています。単なる技術者にとどまらず、その土地の人々の暮らしを豊かにしようとした情熱は、今も各地に残る石碑や伝承として語り継がれています。

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