玉川庄右衛門【玉川上水】

玉川庄右衛門は、江戸時代前期に弟の清右衛門とともに、江戸市民の飲料水確保のために玉川上水の開削という大事業を成し遂げた人物です。元和8年(1622年)頃に生まれ、元禄8年6月6日(1695年7月16日)に亡くなりました。その功績により幕府から玉川の姓を許され、名字帯刀の権利と200石の扶持を与えられました。

江戸の水不足と玉川上水の開削計画

徳川幕府が続き平和な時代が訪れると、江戸の人口は急速に増加し、既存の神田上水だけでは飲料水が不足する事態となりました。幕府は多摩川を水源とする新たな上水の開削を計画し、神尾備前守が庄右衛門と清右衛門の兄弟に調査を命じました。兄弟は各地を調べた結果、多摩川の羽村を取水地点とする計画を立てました。

困難を極めた大工事

承応2年(1653年)、幕府は松平伊豆守信綱を総奉行に、伊奈半十郎忠治を玉川水道奉行に任じ、庄右衛門と清右衛門に開削工事を命じました。多摩川の水の取り入れ口の高さと江戸の高さの差はわずか100メートルほどしかなく、100メートル進んで25センチメートル下がる正確な水路を作る必要がありました。兄弟は夜間に提灯や線香の束に火をつけて見通しを行うなど、精密な測量を実施しました。工事の途中で費用が底をつくという困難に直面しましたが、兄弟は私財を投じて工事を続行しました。

玉川上水の完成と恩賞

兄弟は7ヶ月間で羽村から四谷大木戸までを、翌年11月には虎ノ門までの工事を完了させ、約1年半という短期間で総延長10里30町(約43キロメートル)の大事業を成し遂げました。承応1年(1653年)から承応3年(1654年)にかけて完成したこの上水は、途中29ヶ所の分水を持つ規模となりました。幕府は兄弟の働きを賞して、永代玉川上水役を命じ、玉川姓を名乗ることと帯刀を許し、4年間にわたって200石分の扶持を与えました。また、玉川上水を利用する武家や町方から水上修復料銀を取り立てることも許されました。

後世への影響と評価

元禄8年(1695年)に兄の庄右衛門が、その翌年に弟の清右衛門が亡くなりましたが、玉川上水役は庄衛門と清右衛門の名とともに代々玉川家に世襲されました。明治44年(1911年)には、政府が玉川兄弟の功績を賞して両人に従五位を追贈しています。庄右衛門の墓所は東京都台東区の聖徳寺にあり、玉川上水の出発地点である東京都羽村市には玉川兄弟の銅像が建っています。玉川上水は350年以上経った現在でも利用されており、江戸時代の土木技術の高さを今に伝えています。

もっと知りたい人のためのリンク集

・玉川兄弟 – Wikipedia ・国土交通省:玉川兄弟の紹介(PDF) ・東京都水道歴史館:玉川庄右衛門・清右衛門の伝説 ・小平市:玉川上水の歴史