玉城朝薫は、琉球王国時代に生まれた偉大な官僚であり、組踊の創始者として知られる人物です。1684年に首里儀保で生まれ、幼少期に父を失い祖父の跡を継いで領主となりましたが、芸能と行政の両面で優れた才能を発揮し、琉球文化に永遠にその名を残しました。
生い立ちと幼少期
玉城朝薫は康熙23年(1684年)8月2日、首里儀保の玉城里之子朝致の長男として生まれました。唐名は向受祐。4歳の時に父が25歳の若さで亡くなり、母の真鍋も離別したため、祖父の玉城親方朝恩に育てられました。祖父の死後9歳で玉城間切の総地頭となり、若くして領主の責務を担いました。行政手腕を発揮し、貢租の安定や米穀貯蔵で王府から褒書を受け、有能な官僚として認められました。
芸能への道
朝薫の芸能才能は早くから現れ、17歳で尚貞王から「文弥」の名を賜りました。湛水親方の孫弟子・新里朝住から音楽を学び、照喜名聞覚と並ぶほどの技能を身につけました。生涯で薩摩上り5回、江戸上り2回を経験し、本土の能楽や舞踊に精通。薩摩藩主の前で「軒端の梅」を披露するほどでした。歌三線にも優れ、湛水流を子に伝えました。
組踊の創始
1718年、尚敬王から御冠船踊の踊奉行に任命され、中国冊封使の歓待のため組踊を創作。翌1719年の重陽の宴で初演した「二童敵討(護佐丸敵討)」と「執心鐘入」は大成功を収め、観客を感動の涙に誘いました。以降、「銘苅子」「女物狂」「孝行の巻」を加えた「朝薫の五番」を上演。これらは琉球独自の芸術として王朝文化の最高峰となりました。
晩年と遺産
朝薫は那覇里主や御物奉行吟味役も務め、多忙な公務をこなしつつ芸能を追求。雍正12年(1734年)1月26日に49歳で亡くなりました。彼の組踊は現在も国立劇場おきなわで上演され、琉球の誇りとして受け継がれています。首里に生誕300年記念碑や墓があり、劇聖と慕われています。
・組踊は琉球の伝説を基に、本土の能や歌舞伎要素を融合させた総合芸術。
・朝薫の作品はシナリオの完成度が高く、UNESCO無形文化遺産に登録。
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