川田龍吉は、北海道の農業近代化に尽力し、「男爵いも」の生みの親として知られる実業家です。高知生まれの彼は、造船業から転じ、北の大地で革新的な農法を広めました。
幼少期と出自
安政三年、四国土佐の郷士・川田小一郎の長男として生まれた龍吉は、幼い頃から厳格な家庭で育ちました。小一郎は後に日本銀行三代目総裁となり、龍吉に大きな影響を与えました。十五歳で上京し、慶応義塾に入塾した彼は、早くから海外志向を強めました。明治十年、二十一歳でイギリスに渡り、グラスゴーの造船所で機械技師の見習いを務めました。
造船業での活躍
帰国後、三菱製鉄所や日本郵船に勤務した龍吉は、造船技術を磨きました。明治二十九年、横浜船渠会社を創立し社長に就任、父の死去により男爵位を継承します。明治三十九年、渋沢栄一の推挙で函館ドック会社の専務取締役として北海道へ。日露戦争後の不況を乗り切り、港湾整備に貢献しました。また、明治三十四年には日本初のオーナードライバーとして蒸気自動車を購入するなど、先駆者ぶりを発揮しました。
北海道農業への転身
函館滞在中に七飯村に農場を開設した龍吉は、米国から最新の農機具を輸入し、機械化農業を推進。明治四十年、海外から取り寄せた十一種のジャガイモのうち、「アイリッシュ・コプラー」が優れた収穫を示し、これを「男爵薯」と命名しました。この品種は全国に普及し、今日の主力馬鈴薯となりました。大正二年には「恒産組」を設立、酪農・畑作・林業を手掛け、私設農事試験場として道内農業のモデルに。渡島当別に広大な山林を取得し、トラクターやサイロを導入、多角経営で地域を豊かにしました。
晩年と遺産
昭和初期まで農業指導に奔走した龍吉は、九十五歳の昭和二十六年、渡島当別で没。妻の楠瀬春猪とは生涯を共にしたものの、晩年にカトリックに改宗し、静かな余生を送りました。彼の功績は、北海道の食文化を変え、函館や北斗の歴史に刻まれています。男爵いもは今も人々の食卓を彩り、龍吉の開拓精神を物語ります。
年譜
・安政3年(1856):高知杓田村生まれ
・明治10年(1877):渡英、グラスゴーで造船修業
・明治29年(1896):横浜船渠社長、男爵継承
・明治39年(1906):函館ドック専務就任
・明治40年(1907):男爵薯試作開始
・大正2年(1913):恒産組設立
・昭和26年(1951):死去、享年95
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