津田米次郎【織機発明家】

津田米次郎は、日本の織物産業の近代化に大きく貢献した発明家で、絹用の力織機を開発したことで知られています。文久2年(1862年)に石川県金沢市で生まれ、大正4年(1915年)に54歳で亡くなるまで、私財を投げ打ち、借金を重ねてまで絹用力織機を開発しました。

生い立ちと家族背景

津田米次郎は、文久2年6月8日(1862年)に加賀国金沢(現在の石川県金沢市)で、津田吉次郎の子として生まれました。米次郎の家系は宮大工の家系で、祖父・幸七とその弟の吉之助はともに尾山神社の神門作りに参加した、名を知られた宮大工でした。この技術者の血筋が、後の米次郎の発明家としての素質に影響を与えたと考えられます。

力織機開発への道のり

津田米次郎は明治・大正期の絹布力織機発明家として、日本の織物産業の機械化に尽力しました。明治13年(1880年)には、後に豊田自動織機を創立することになる豊田佐吉に先んじて木綿用の動力織機の試作に成功しました。しかし、米次郎の真の望みはあくまで北陸の風土に根づいた絹用の力織機でした。木綿用力織機に力を注いだ豊田佐吉とは、それぞれの道を極めるよう、互いに励ましあったと伝えられています。

明治33年(1900年)には念願の絹用力織機、いわゆる津田式羽二重動力織機を完成させました。この発明は第五回内国勧業博覧会で優秀賞を獲得するなど高い評価を受け、日本の織物産業の近代化に大きく貢献しました。

東京での事業展開と後継者の育成

明治38年(1905年)、米次郎は東京へ進出し、麻布の松尾工場との提携により力織機を生産しました。この時期、米次郎は16歳年下の津田駒次郎を指導者として育てていました。駒次郎は米次郎の力織機開発に打ち込む姿を身近で見つめ続け、温厚篤実な青年技術者として成長していきました。明治40年(1907年)に駒次郎も上京し、二人は東京で協力して織機製作に取り組みました。

その後、駒次郎は金沢の大西文次郎機業場から織機90台の注文を受けたことを転機として、米次郎から独立し金沢へ帰る決心をしました。これが後の津田駒工業(ツダコマ)の創業につながり、米次郎の技術と志は駒次郎に受け継がれていくことになります。

晩年と業績

米次郎の絹用力織機の開発により、石川県内では力織機の導入台数が年々増加していきました。大正3年(1914年)には力織機が手織機を追い越し、翌大正4年(1915年)には手織機が5979台に対して力織機が8957台とその差を広げました。この力織機の普及を見届けるかのように、米次郎は大正4年11月12日に54歳で他界しました。私財を投げ打ち、借金を重ねてまで絹用力織機にこだわり続けた開拓者としての生涯でした。

歴史的意義

津田米次郎は豊田佐吉とともに日本の織機開発の先駆者として評価されています。力織機はイギリスのE・カートライトが1785年に発明したものですが、日本では金沢の津田米次郎が津田式羽二重動力織機を開発したことで、国内の織物産業の機械化が大きく前進しました。特に北陸地方の絹織物産業の発展に果たした役割は計り知れません。米次郎が開発した絹用力織機の技術と、駒次郎が市場を創った功績により、石川県の織物産業は大きく飛躍することになりました。

もっと知りたい人のためのリンク集

津田米次郎の人物情報 – コトバンク

津田駒次郎翁と織機作り – 津田駒工業株式会社

津田米次郎 – 石川県立図書館ふるさとコレクション

絹用力織機を発明した津田米次郎 – 飯時金沢