二宮尊徳【報徳思想】

二宮尊徳は、江戸時代後期に報徳思想を唱え、荒廃した農村を復興させた偉大な農政家・思想家です。一般的には「二宮金次郎」の名で知られ、道徳と経済の両立を目指し、生涯で600以上もの村々を立て直したその実績は、日本資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一にも大きな影響を与えました。

苦難に満ちた幼少期

天明7年(1787年)、尊徳は現在の神奈川県小田原市栢山村の比較的裕福な農家の長男として誕生しました。幼少期は教養のある父から教育を受け、優しい母の慈愛を存分に受けて幸せに育ちましたが、14歳の時に父を、16歳の時に母を亡くし、一家は離散してしまいます。金次郎は伯父宅に身を寄せることになり、17歳の時には夜学のために自ら菜種を栽培して灯油を確保するなど、苦労を重ねながらも学問への情熱を失いませんでした。こうした逆境の中でも努力を続け、20歳の時には見事に生家の復興を果たしました。

小田原藩での実績と桜町領の復興

26歳の時、尊徳は小田原藩家老服部家の財政立て直しを成功させ、その手腕が認められます。文政5年(1822年)、36歳の時に下野国桜町領(現在の栃木県真岡市二宮町)周辺の復興を命じられましたが、当初は順調に進みませんでした。文政12年(1829年)には一度桜町から姿を消し、成田山にこもって断食をするほど思い悩みましたが、桜町領の125人の村人が出迎えに来たことで帰村を決意します。以後、桜町仕法は順調に進み、土地の開墾や堤防の改修を行い、真面目に働いた農民には褒美を与えて勤労意欲を引き出しました。10年がかりで桜町は復興し、以前よりずっと多い米が収穫できるようになりました。

報徳思想の確立と全国への広がり

尊徳が唱えた報徳思想とは、万物に徳があり、その徳に報いるべきであるという考え方です。道徳と経済の両立を目指し、人々の幸福を追求したこの思想は、農民でありながら武家層からも絶大な信頼を獲得することにつながりました。天保4年(1833年)の天保の大飢饉では、ききんを予測して稗を栽培することで人々を救うなど、先見の明も発揮しました。桜町での成功が評判となり、尊徳は関東各地の他藩からも招かれ、生涯で600以上の農村を立て直しました。天保13年(1842年)には幕府に召し抱えられ、普請役格となって印旛沼開拓や利根川利水について提案を行い、翌年には幕府直轄領の仕法を、弘化元年(1844年)には日光山領の仕法を命じられるなど、その活動範囲は広がり続けました。

晩年と後世への影響

嘉永6年(1853年)、67歳の時に日光神領の復興を命じられた尊徳は、安政3年(1856年)、栃木県今市(現在の日光市)で70年の生涯を閉じました。尊徳が手がけた村々は600ヶ村以上に上り、大飢饉で農村が疲弊しきっていた当時、多くの農村や藩を貧困から救いました。独自の思想と実践主義で人々の幸福を追求し、数理、土木建築技術から文学まであらゆる才能を発揮した尊徳は、世界に誇れる偉人として今も語り継がれています。その報徳思想は、渋沢栄一をはじめとする後世の実業家たちにも大きな影響を与え、明治以降も受け継がれていきました。

もっと知りたい人のためのリンク集

公益社団法人報徳社 – 二宮尊徳と報徳
報徳二宮神社 – 御祭神二宮尊徳翁
栃木県 とちぎふるさと学習 – 二宮尊徳
小田原市 – 二宮尊徳の遺跡めぐり