八重崎屋源六【薬の富山】

八重崎屋源六は、江戸時代中期の商人で、富山の配置家庭薬の創始者として知られる人物です。富山藩二代藩主の前田正甫公の命を受けて全国で反魂丹を行商し、現在まで続く「くすりの富山」の基礎を築きました。

生涯と出身

八重崎屋源六は越中富山藩の出身で、寛延2年3月8日(1749年4月24日)に亡くなったと伝えられていますが、生年は明らかになっていません。17世紀末、江戸時代の越中国における売薬行商人の最初の人物として記録されています。富山城下で商人として活動していた源六は、後に「富山の売薬の始祖の一人」として歴史にその名を刻むことになりました。

富山売薬の誕生と源六の役割

元禄3年(1690年)、富山藩二代藩主の前田正甫公が江戸城の大広間で、急に腹痛を起こした岩代三春藩の藩主・秋田河内守に反魂丹という薬を与えたところ、腹痛がたちまちに治りました。この様子を見ていた諸藩の大名たちから「ぜひ自分の領内で売ってほしい」と頼まれた正甫公は、富山に戻ると薬種商の松井屋源右衛門に反魂丹を調製させ、八重崎屋源六に依頼して諸国を行商させたのです。これが「くすりの富山」として知られる富山の配置家庭薬の始まりとなりました。

商いの精神

源六は、前田正甫公から「用を先に利を後にせよ」という精神を授かり、それを胸に全国を行商しました。この教えは、顧客の必要性を第一に考え、利益は後から付いてくるという商人の心構えを示すもので、富山の薬売りの基本精神となりました。源六はこの理念を実践しながら、各地の大名の領内で反魂丹を広め、富山売薬の評判を確立していったのです。

富山売薬への影響

八重崎屋源六による全国行商の成功は、その後の富山売薬産業の発展に大きな影響を与えました。富山藩は売薬を藩の重要な産業として保護・育成し、廃藩置県により富山藩に置かれた「反魂丹役所」が廃止された後も、明治9年に民営の「富山廣貫堂」が設立されるなど、その伝統は現在まで受け継がれています。源六が切り開いた行商の道は、富山県の医薬品産業の基盤となり、「薬都富山」としての地位を確立する原点となりました。

もっと知りたい人のためのリンク集

八重崎屋源六 – Wikipedia
「くすりの富山」の始まり – 富山常備薬グループ
「おきぐすり」の歴史 – 全国配置家庭薬協会
富山の配置家庭薬の起こり – 富山商工会議所