御木本幸吉

御木本幸吉は、三重県鳥羽市出身の真珠養殖のパイオニアで、真珠王と称された実業家です。世界で初めて真円真珠の養殖に成功し、ミキモトを世界的なブランドに育て上げました。

幼少期と家業の継承
安政五年(一八五八年)、三重県鳥羽の漁師町に生まれた御木本幸吉は、幼名を吉松といいました。父の音吉は機械いじりが好きで、粉挽き臼の改良などで表彰された人物でした。幸吉は幼い頃から行商を手伝い、明治九年(一八七六年)の地租改正を機に家業を青物商から米穀商へ転換させます。明治十一年(一八七八年)、二十歳で家督を相続し、幸吉と改名しました。以後、海産物を扱う商人としてアワビや天然真珠、ナマコなどを取り引き、地元の産業振興にも尽力しました。

真珠養殖への挑戦
明治二十一年(一八八八年)、全国水産品評会で大日本水産会の柳楢悦に指導を仰ぎ、貝の養殖を試みますが、最初は失敗に終わりました。それでも諦めず、明治二十六年(一八九三年)に鳥羽の志摩で真珠貝の養殖を本格化。妻うめを早くに亡くす試練を乗り越え、親族の協力を得て研究を続けました。明治二十九年(一八九六年)、半円真珠の特許を取得し、世間の注目を集めます。ついに明治三十八年(一九〇五年)、作佳吉の助言を得て真円真珠の養殖に成功。「世界中の女性の首を真珠で飾る」と天皇に宣言した幸吉の言葉通り、養殖真珠は国際的に認められました。

事業拡大とブランド化
成功後、御木本真珠店を創業し、ミキモト・パールを輸出。藤田四郎や森村市左衛門ら有力者の支援を受け、宮内省御用達に。東京やニューヨークに店舗を構え、真珠王の名を世界に轟かせました。大正十三年(一九二四年)には貴族院多額納税者議員に選ばれ、政治面でも活躍。戦後には占領軍を招き、真珠輸出で外貨獲得に貢献しました。一九四九年、中日文化賞を受賞する一方、養殖真珠の量産が中東の天然真珠産業に影響を与えました。

晩年と遺産
昭和二十九年(一九五四年)、九十六歳の天寿を全うして没。老衰ながら質素な生活を送り、胆石の持病を抱えつつも真珠への情熱を失いませんでした。ミキモト真珠島は今もその功績を伝える場所として残り、日本の発明家十大人物の一人に選ばれています。幸吉の挑戦は、志摩の漁村から世界ブランドを生み出した郷土の誇りです。

・生年月日:安政五年(一八五八年)三月十日
・没年月日:昭和二十九年(一九五四年)九月二十一日
・主な功績:真円真珠養殖成功、ミキモト創業
・戒名:真寿院殿玉誉幸道無二大居士
・墓所:青山霊園(東京)

もっと知りたい人のためのリンク集

御木本幸吉 – Wikipedia
MIKIMOTO ブランドストーリー
ミキモト真珠島 公式サイト
近代日本人の肖像 – 国立国会図書館