中山久蔵【寒地稲作の祖】

中山久蔵は、明治時代に北海道の道央以北で初めて稲作を成功させた農業指導者です。「寒地稲作の祖」「北海道稲作の父」と称され、その功績により北海道の米作り文化の礎を築きました。

波乱に満ちた前半生
文政11年、河内国石川郡春日村に農家の子として生まれました。17歳で家を飛び出し諸国を放浪した後、25歳で仙台藩士の下僕となります。仙台藩が蝦夷地警護のために設けた白老陣屋と仙台を何度も往復する中で、北海道の厳しい自然と将来性を肌で感じ取りました。明治維新後は北海道開拓を志し、まず勇払、次いで島松で開拓に従事します。

寒冷地稲作への挑戦
明治6年、45歳の久蔵は道南の大野村から寒さに強い品種「赤毛種」の種籾を取り寄せ、島松で水稲の試作を開始しました。当時、外国人顧問団からは「寒すぎる北海道では稲は作れない」と言われていましたが、久蔵は諦めませんでした。

独自の工夫と成功
久蔵が編み出した方法は画期的でした。
・風呂桶に大きな石を焼いて入れ、湯を沸かす
・昼夜を問わず風呂の湯を水田に運び、苗を保温
・苗代の水温を一定に保つことで生育を促進
この工夫により、反当たり345キログラムの収穫に成功。道南以北における稲作の可能性が初めて証明されました。

種籾の無償配布と普及活動
久蔵は収穫した「赤毛種」の種籾を、空知や上川の農家に無償で配布しました。「島松の久蔵」「稲づくりの久蔵」として広く知られるようになり、開拓使長官の黒田清隆から「中山」の姓を賜りました。以後、「赤毛」の種籾は「中山種」とも呼ばれるようになります。

駅逓所の経営と晩年
久蔵の自宅は「旧島松駅逓所」として利用され、現在は国の重要文化財に指定されています。大正8年、91歳で天寿を全うしました。なお、現在人気の北海道米「ゆめぴりか」は、久蔵が栽培に成功した赤毛種の子孫にあたります。

もっと知りたい人のために
北広島市教育委員会 寒地稲作発祥の地
Wikipedia 中山久蔵

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