中川五郎治【種痘の先駆者】

中川五郎治は、日本における種痘法の先駆者です。ロシアに抑留された際に種痘術を習得し、帰国後は箱館・松前を中心に種痘を実施して、多くの人々を天然痘から救いました。

波乱の前半生
明和5年、陸奥国下北郡川内村に生まれました。若い頃から蝦夷地に渡り、松前の豪商・栖原庄兵衛の世話で択捉島の漁場番人を務めていました。文化4年、ロシア人フヴォストフによる襲撃を受け、シベリアに連行されるという数奇な運命をたどることになります。

シベリア抑留と種痘術の習得
シベリアでの抑留生活は5年にも及びました。この間、2度の脱走を試みましたが失敗。しかし、この苦難の中で五郎治は転機を迎えます。ある商人の家に泊まった際、書棚にあった種痘書に出会いました。5年の抑留生活でロシア語を習得していた五郎治は、この本から種痘が恐ろしい天然痘を予防できることを学び、医師の助手として種痘法を習得しました。

帰国と種痘書の翻訳
文化9年、ゴローニン事件の捕虜交換により日本に送還されました。五郎治が持ち帰った種痘書は、幕府の訳官・馬場佐十郎によって文政3年に和訳され、『遁花秘訣』と題されました。これが日本最初の種痘書となりました。

日本初の種痘実施
松前奉行配下の手代となった五郎治は、文政7年、田中正右衛門の娘イクに種痘を施しました。これが記録に残る日本初の種痘術とされています。その後も天然痘が流行するたびに種痘を実施し、多くの人々を救いました。
・文政7年、天保6年、天保12年に種痘を実施
・痘苗は大野村の牛を使って作成
・箱館の医師・白鳥雄蔵、高木啓策らに技術を伝授

功績の評価と晩年
五郎治の種痘法は白鳥雄蔵を通じて秋田、さらには京都にまで伝わりました。弘化5年9月27日、川に足を滑らせて溺死。享年81でした。大正13年には従五位が追贈され、その功績が正式に認められました。長崎経由でジェンナーの種痘法が伝わる約25年も前のことでした。

もっと知りたい人のために
函館市文化・スポーツ振興財団 中川五郎治
Wikipedia 中川五郎治

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