島義勇【五州第一の都】

島義勇は、幕末から明治にかけて活躍した佐賀藩士であり、札幌市の建設に着手した「北海道開拓の父」です。

「五州第一の都(世界一の都)」を築くという壮大な構想を描き、現在の札幌の街並みの基礎を築きました。

佐賀藩士としての修業時代
文政5年、肥前国佐賀城下に生まれました。藩校・弘道館で学び、諸国を遊学して当代一流の学者たちから教えを受けました。水戸藩士・藤田東湖との交流を通じて尊皇愛国の思想を深め、嘉永3年には「義祭同盟」の発会式に出席しています。

蝦夷地探検の経験
安政3〜4年、藩主・鍋島直正の命により、蝦夷地と樺太を約1年半かけて探検調査しました。1日に70キロメートルもの距離を歩き、厳冬の夜には犬を抱いて寒さをしのぎながら、詳細な調査記録『入北記』を書き残しました。この経験が、後の札幌建設に活かされることになります。

開拓判官として札幌へ
明治2年、蝦夷地が北海道と改称されると、島は開拓判官に就任しました。同年10月、銭函に仮役所を開設後、札幌に入り建設に着手します。当時の札幌はアイヌのコタンと和人入植者の家が点在する原野でしたが、島は京都を手本に碁盤の目のような整然とした市街を構想しました。

札幌建設の功績
島が札幌建設で残した功績は多岐にわたります。
・南北を分ける東西軸の大通りの設計(現在の大通公園)
・道路幅を約22メートルと広く設定(防火帯と将来の交通量を考慮)
・開拓三神を祀る札幌神社(現・北海道神宮)の創建
・数百人の職人・人足を率いての工事推進

志半ばでの解任と最期
しかし、厳冬期の工事は多額の費用を要し、長官・東久世通禧との意見対立もあって、わずか3か月で解任されました。帰京後は大学少監、侍従を歴任し、秋田県初代権令も務めましたが、明治7年、佐賀の乱に連座して刑死。享年53でした。死後、その功績は再評価され、現在は北海道神宮境内の開拓神社に祀られています。

もっと知りたい人のために
北海道神宮
Wikipedia 島義勇

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